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医・歯二元論と制度のあり方を考える 

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都 温彦
(福岡大学名誉教授・前医学部歯科口腔外科教授)

<最終回>

おわりに

●歯科医学のアイデンティティとは
 2005(平成17)年9月1日より「Dental Today」紙に本テーマを掲載することになってから3年9カ月を迎えることになった.本月号をもって終了させていただきたいと思う.長期にわたり掲載の機会を与えていただいた医学情報社に深謝申し上げたい.
 今回のテーマを考えるにあたっては,歯学あるいは歯科医学とは何か,そのアイデンティティを求めることであった.そのためにはヨーロッパに始まり,アメリカ合衆国において歯科医学,Dental Schoolとして医学と競合しながら,医学とは別に独自の発展をとげたアメリカの歯科医学と,その流れを汲む我が国の医・歯二元論制度の歴史をひもとくことが必要であった.
 我が国における医学における歯科学は,医学の一分科として東京帝国大学医学部に端を発しているが,それ以前より歯科医学は歯科医学専門学校のもとで歯科医師を養成していた.当時から,医師と歯科医師との身分制度があった.その流れは今からおよそ100年前に遡ることができるのである.
 ここに,“医学”における“歯科学”と,それから切り離すように身分法として制定された“歯科医師”と“歯科医学”との矛盾があり,それをどのように統合的に発展させるべきかという哲学的な問題が存在している.
 さて現代の歯科医学は,歯学部あるいは歯科という専門領域の中で閉じこもっていてよいのであろうか.大学院制度のもとで統合化されたところもあるが,もっと医学と交流し,医療面についても積極的に関連分野を開拓し,発展させる必要がある.そうでないと医学的,医療的に遅れをとる懸念がある.たとえば,看護学臨床における聴診器を使った医療は以前にはみられなかった.このような変化は時代の要請,社会的要請であるが,歴史的にみると,看護学と医学が一元論的基盤にあったことが指摘される.
 ここで歯科医師の職業的意識についてみると,医師であるという意識と歯医者であるという意識が存在している.自ら歯医者を唱えるものもいれば,医学の一分科としてのアイデンティティを求める人たちもいる.
 歯科医師のアイデンティティには,医・歯二元論制度になって以来の,医学か,そうでないかの矛盾が続いている.
 しかし現在の歯科医療には,専門医,指導医,認定医制度が作られており,従来の歯科医療から,より高度化している.そこで従来の歯科医療を踏襲した制度と,医業の一分科としての制度の両方が並立し,またそれを選択できるような,医学と歯学の教育の互換性を考慮した形をとる二元論制度も考えられるのではないかと思う.この在り方は従来から現在もごく一部で存在している.そしてこの考え方は,2006年4月1日号の「Dental Today」紙において小谷朗先生(信州大学名誉教授,前歯科口腔外科教授)が提案された医歯一元論制度(医学部・医科大学を卒業した者が歯科口腔外科の臨床科へ入る)を組み込める制度であると思う.
●求められる医学の中の歯科の存在意義
 さて,新しく大学院大学制度が発足して,医学部,歯学部の大学院や病院が一元化されるようになった現在,医学部はどのような意義をもって歯学を医学の中に位置づけているのであろうか.また歯学部はどのように医学部における歯科口腔外科を考えているのであろうか.お互いに無関心のまま,医・歯二元論制度の延長の中で習慣的に存在を認めているのであれば,真の歯科の存在意義はなく,医学としての歯科の発展性もないであろう.
 医療における歯科は,新たな存在意義を問うていないと,歯科がなければ困るという病院診療科の次元の意義だけになってしまう.現代の医学そして歯学の発展は,たとえば心身医学や,摂食・嚥下研究,再生医療研究などにおいては,医・歯二元論制度の発足当初とは異なって,両者の隔たりはなくなり,共通の医学的,生物学的認識をもたらしている.
 このようなことは,多くの医師や歯科医師,そして有識者たちが抱いている考えでありながら,手つかずのまま放置されているというのが現状であろう.
「医学としての歯科医学」は,医学の底辺を広げ,科学的に人間や病気の実態の原理を追求するのが本道であろう.そのためには,基本的原理を追求するテーマの目的と,方法が示されることが必要である.
これまで歯科は科学技術を本領としてきたところがある.科学技術は応用科学の分野であると思われる.この本領から歯科医学を追求して,歯や口腔,顎顔面の真理をかいま見て,真理の発見を導くことができるであろうか.
応用科学の1つである外科学は,未知で手付かずであった癌手術の進歩によって,癌の学問的底辺を広げ,科学的解明が行われつつある.同様に,医学に対等となる新しい歯科学の開拓と,画期的歯科学の知見と発見が,望まれるところである.
ちなみに,摂食器官である歯,口腔,顎顔面は生命の維持,発展にとって不可欠であり,そのメカニズムと有機的働きは生命現象やヒトの食性の進化を問う,歯科学における重要かつ大きなテーマの1つである.

 本稿を終えるにあたり,100年来継続してきた医・歯二元論制度は,このままでよいのか,患者にとってはどうか,学問の進歩にとってはよいのかどうか,という問題意識について,何らかの一石を投ずることができれば幸いであると思う.

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医・歯二元論と制度のあり方を考える 

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都 温彦
(福岡大学名誉教授・前医学部歯科口腔外科教授)

<番外編>

癌の体験

今回は,筆者の癌体験と医歯二元論制度を合わせて考えてみたい.
癌との出会い 
 平成21年2月9日,食道癌が松尾内科の理事長松尾尚先生により指摘された.父も母も死因は癌ではなく老衰であり,母は86歳,父は96歳であった.5人きょうだいの中では,私が癌第1号である,自分にとっても,家内にとっても晴天の霹靂であった.
この発見の経緯については,自分自身の意志判断はまったくなく,松尾理事長,陣内院長,辻師長による検診の勧めであった.
自分にとっては,食道内視鏡検査へと導いた天の采配,示唆が多大である.松尾先生には,あらためて感謝申し上げたい.
考えてみると,数年後,いまの癌が発見されたとすると,齢80歳である.その時には体力も衰え,術前術後に合併症の危険因子となる疾患も生じているであろう.また,看病する家族もいまのようにはいかないかも知れない.このように考えると,今回74歳で発見されたことは幸運であった.また,癌が比較的初期のうちに発見されたことなど,何かしら自分の力や考えの及ばないところで大きな力に導かれたことは,不思議であった.
また本年1月1日,子どもや孫たち一同と新年の食事を共にしたとき,小児科医で内分泌代謝専門医である長男に,たまたま血液検査値を見せたところ,直ちにメタボリックシンドローム,運動不足,糖尿病を厳しく指摘された.翌日から裏山へ登り始め,1カ月余りして,今回の癌の発見,手術になった.山登りは手術のための準備のような気がしている.これには,私の予感もわずかに入っていたかも知れない.
さらに,手術や治療,看護に携られた方々,消化器外科山下裕一教授,神の手ともいうべき手腕で手術を施行された白石武史准教授に深謝したい.そして主治医の諸先生,看護師の皆様方,多くの医療者の方々へ深く御礼を申し上げる次第である.ありがとうございました.
この病気が治り.無事退院を迎えることができるようになった時,生き甲斐をもとにした仕事に専念し,人には現実的共感をもって接し,健康に生きる喜びをもって人生を送りたい.なにしろ命が助かったのだから,これに勝るものはない.無欲に平静の心をもって謙虚に生きたいと思う.
痛み
 きょうは術後12日目である.まだ身動きは自由にできない.苦痛の時間が止まって動かない.長い時間である.
その時の心境は次のようである.

 術後の痛みに嘖(さいな)まれて
 暗澹たる長い春の季節は何だろう.
 暗澹たる長い夏の状況は何だろう.
 暗澹たる長い秋の季節は何だろう.
 暗澹たる長い冬の季節は何だろうか.

 それらは何の変哲もない状況の積み重ねと大手術後の不自由と痛みを“たたみ”一畳の茨の蓆(むしろ)の上を日がな一日,ノロノロと蝸牛のように動かしながら,何時の日にか来るであろう自由と安楽を夢見ている.
 この辛さと苦痛は体験したものでないと分からない地獄に似た苦しみである.身に何本(7本)も巻きついているスパゲッティ シンドロームは身体の横転を極端に制限している.これからの解放を切に祈っている.
 食道癌の手術は肺癌,胃癌,甲状腺癌の手術を一緒にしたような手術であり,筆者の場合,10時間を超す手術であった.また,術後数日は譫妄などのICUシンドロームの混乱を生じた.
歯科医療の一元論的必要性
 今回の癌体験を通じて,同じ医療者として歯科医師は患者の悩みや苦痛を医師と同様に共有する必要はないだろうか,と考えられた.歯科医療は,余りにも医療とは離れた存在になってはいないだろうか.現代の外科や内科医療は生命の極限を追求したところで行われている.そして癌は以前のように密やかな病気ではなく,他の病気と同様に公開されるような治る病気として認知されるようになった.
 今日の全人医療においては歯科医師も,専門は異なっていても,患者の生命や社会的怯えに悩む現実に,共感と同調性をもって患者を癒せる存在である必要性を感じた.「食べる」という大きな役割を受け持つ歯科医師も,患者の心が癒せる医療者としての能力を臨床研修医制度のなかで得られるようにしたら如何か,と思う.
 歯科医療は各科すべての患者に対して連携されるからである.また,重症である本疾患のごときは術前,術中,術後の嚥下性肺炎の予防のために,歯周病や齲蝕の治療,そして術後の経口摂取における食事訓練に必要な咀嚼習慣を,かねてよりつけておく必要があることを実感した.
歯科医療が科学的,技術的範囲だけではすまない医歯一元論的必要性を現在の歯科医療はもっていると思う.

医・歯二元論と制度のあり方を考える 

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都 温彦
(福岡大学名誉教授・前医学部歯科口腔外科教授)

我が国における医歯二元論制度のあり方を考える

3. これからの歯科医師のあり方と方向性について

今日,地域医療については高度な医療を地域住民に提供する医療センターや総合病院が各県の地域に存在している.歯科医療については,一般的に大学病院の歯科口腔外科が歯科の救急患者に対応している場合多いが,その数は少ない.
 我が国の国民皆保険制度のもとで高度の歯科医療を地域住民に提供するためには,まず地域の総合病院や医療センターに,一般歯科治療が行えて,個人的にいくつかの歯科専門医の資格を有する優秀な歯科医師を臨床研修指導医として3〜4人を配置する必要がある.そして,そこに勤務する歯科医師は院内の医師と臆せず医学的,医療的交流ができ,地域の医師や歯科医師と連携ができることが必要である.
 そして,このような歯科医師は医師と同等の給料を保証されるべきである.できれば将来的には病院勤務と医歯一元的に当直や救命救急処置ができるような教育や身分制度も検討すべきであろう.
 現在の歯科保険制度では,歯科部門の収支採算がとれない場合は,医師と同じ収入に達しない赤字額の差額を国が病院へ補填するような医療評価を図るべきであると思う.
 将来的に,優秀な歯科医師を公的病院に集めて高度の地域歯科医療と歯科研修医の指導教育を図り実施することは,低迷する歯科医療にとって重要な課題である.
 我が国の歯科医療は,低収入とワーキングプアと称する一群の歯科医師難民をかかえ,歯科医療の低下と破滅への道に追い込まれていると言わざるを得ない.
 かつてエルンスト・ヘッケル(Ernst Haeckel, 1834〜1919)は「個体の発生は系統発生を繰り返す」という進化論の説を唱えた.すなわち,ヒトの胚が発生する過程においては生命が地球に現れてから35億年の進化の過程の道筋を早送りのビデオのように繰り返して生まれてくるわけである.組織や人脈による文化性は遺伝する傾向がある.16世紀にヨーロッパにおいて萌芽した近代歯科学は,アメリカに渡り,ボルチモア歯科医学校という組織を誕生させた.当時の古典的な近代歯科学の特徴は遺伝的に現在も生きている.
 歯科学そして歯科医学校,歯学部は時代と共に進化しなければならない.また医学と歯学は協調的に進化すべきである.
 医療においても同様である.今,我が国の近代歯科学そして歯科学の教育や医療制度のあり方には,歯科学発足時からの環境やその遺伝的因子の改良と進化が求められるときである.そのためには歯科医師と歯科医療の向上と進化を目指して,若干の歯科医師法の改正に踏み込むことも止むを得ないのではないかと思われる.
 ワーキングプアとまでいわれる歯科医師を育成する歯学部には,徐々に優秀な学生が敬遠して来なくなる傾向を生み出している.
 優秀で意欲的な若者や受験生たちは,実利的で将来的夢があり,社会的に尊敬される学部に挑戦しようとする.一般的に親や学校もそのことを期待している.歯科医師や歯学部側も,ひいては国民の健康と歯科学発展のために歯学部や歯科医療を魅力的で価値のあるものにする努力をしなければならない.そうしなければ歯学部や歯科に関心をもっている優秀な受験生たちから敬遠されてしまう危険性があると思う.
 近代歯科学の誕生と発展の歴史をみると,歯科学は生物学や医学の一分科として解釈される.そうであれば,歯科学は医学の一分科として医学の広い舞台に乗せて一元論的視野のもとで哲学的討議,批判,反省を行い,知識や技術を考え,生物学的哲学を共有することが歯科学発展のためによいことであると思う.このような状況は,これまで培った歯科学の知識や知見,治療技術の整理そして医学との整合性に役立つ機会を作ることになる.
 何事においても,人間はより高いレベルを要求されるときや,異種文化や厳しい状況において進化する.歯科学の中だけに閉じ籠るような思考は刺激や啓発性に乏しくなりやすい.
 かつては単科大学であったマサチューセッツ工科大学などは名称は従来のままであるが,最近では文系や生物系の学部も設置されている.単科だけの学問では,発展する活力や知的要素,脳への啓発的刺激などが乏しくなるのであろう.
 日本においても現在の一橋大学の前身校は東京商科大学であり,今では文系の総合大学になっている.東京工業大学も現在,理系の総合大学を目指している.
 医学と歯学との部分的あるいは全体的接点,そして両者の総合的発展への道筋は,歯学の将来にとって重要な課題を提供している.
 今,歯科学・歯学部そして歯科医療は狭隘な領域の世界だけに閉じ込められてしまうか,あるいは広範な領域を背景にした視野に立つことができるかの岐路に立たされている.
 歯科は人間科学として,医学との共通の知識や,思考,哲学を真摯に考えなければならない.

医・歯二元論と制度のあり方を考える 

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都 温彦
(福岡大学名誉教授・前医学部歯科口腔外科教授)

我が国における医歯二元論制度のあり方を考える

2. 医療と歯科医療との二重構造と相違点

 従来,歯科医師の多くは,歯科医学専門学校,歯科大学,歯学部を卒業したり歯科医師臨床研修期間が終わると,2〜3年間大学や総合病院の歯科や開業医の診療所に勤務して開業術を学び,開業医としての道を目指す人が多い.このような行き方が歯科医師としての伝統的なスタイルになっている.研究者として大学や研究機関に残ったり,そして総合病院や医療センターなどの高度な医療機関勤務を目指す歯科医師が少ないのは何故だろうか.
 歯科医師には終生,研修や学問,研究は不必要で技術だけを磨けば良いというふうに,先が見え,分かりきった内容の職業として自他共に認めているとすれば,大きな間違いを犯していることになる.
 歯科学が対象とする歯や口腔は発生学的にみても胎生の初期段階に発生し,脳との関係も深く,生命維持や成長・発育そして健康や情緒に関する重要な臓器・器官である.さらに人間の終末期において意識活動が低下したときまで,口腔粘膜の刺激に対しては胎生期における原始反射を示すような,生命に直結した臓器・器官である.また臨床的には歯痛や不定愁訴の原因に関しては機能的か,器質的か,心因的かの慎重な鑑別診断と確定診断に至る思考と作業が行われる.誤診による誤加療と医原性障害や院内感染,そして訴訟問題が起こらない治療に留意することについては,医療と何ら変わるところはない.
 総合病院における歯科の診療収入が他科に比べると余りにも低く,病院経営にとっては足手纏いの赤字部分になることを病院側は周知しているので歯科の門戸を閉ざさざるを得ないのであろうか.そこに勤務する歯科医師も院内の診療会議において衆目に曝される歯科診療点数の惨めな実態に,いたたまれない思いをしている.真摯に歯科診療に務めながら,低い歯科診療点数に喘ぎ,歯科医師がワーキングプアとしてテレビや雑誌で報道されている実体を,世間や厚生労働省をはじめ行政は一体どのようにみているのであろうか.このことは国家的問題である.例えば,歯内療法は歯科保存療法において生物学的治療として最も重要であり,時間と手技において困難な手数を要するにもかかわらず,定められた保険診療点数は余りにも低い.その点数の値段は支払う患者側の方が,その安さに驚きを示す場合がある位である.安価な歯内療法の点数は,やがて次の歯内療法の再受診を頻繁に期待するための点数であると勘繰られても仕方がない.
 一般的に,歯科という科名や歯医者という呼び名には医科に比べると歯科医学専門学校時代からの学歴からくる人体の器官や臓器に対する差別が染(し)み付いているように思われる.そして医歯二元論制度においては病院の歯科名は医科の各科名の組織図とは別の位置に存在している.法律的身分差は病院組織図の区分についても歴然としている.官僚組織や給料体系についても同様である.医歯二元論制度は歯科医師にとって病院勤務の形態や機能に大きな足枷(かせ)になっている.
 そこで現行の医歯二元論制度においては,部分的にでも一元化すべき必要なことは一元化して歯科医療を医療と同等のものにしておかないと,病院内における歯科医師の医療業務について医師の医療業務とは一体化しない不備・不充分な実体を存在させることになる.
 また歯科医師臨床研修制度に定められた1年間と医師臨床研修制度に定められた2年間とでは,両者間の学歴や身分そして給料面における差を生じるであろう.このほか,歯科医師の歯科麻酔や救命救急の研修や実施の場合などについて,医師法との法律的抵触に関する問題も考えなければならない.
 我が国において100年余り継続してきた医歯二元論制度は,同じ医療でありながら,例えば多くの医師が勤務する病院組織において,歯科医師の場合,医師とは馴染まない,そして,うまく適応できない要因を作ったと思われる.

医・歯二元論と制度のあり方を考える 

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都 温彦
(福岡大学名誉教授・前医学部歯科口腔外科教授)

我が国における医歯二元論制度のあり方を考える

1.はじめに ─歯学部・歯科医学校の哲学─

アメリカに始まった医学から分離,独立した歯学部・歯科医学校には理念や思想的目標に関する流れが存在している.その理由には歯科学が医学という母体から分離,独立したために哲学的拠(よりどころ)と医学的理念を失ない,その結果,根無し草的な宙ぶらりんの状態になったことが考えられる.そこで,歯科医学あるいは歯科医師とは何か,というアイデンティティの確立が必要であったと思われる.新しいアメリカ合衆国においては医学や歯科医学をはじめ,新しい分野について開拓精神と希望やリーダーシップに関する理念が必然的に求められたことであろう.
 近代医学はルネ・デカルト(1596〜1650)の心身二元論によって科学的発展を遂げることになった.デカルトは人間を「考える精神」と「延長ある物体(身体)」とを相互に独立した実体とする二元論の哲学を樹立した.すなわち,心と身とは分離して考えることができる.眼に見えることができない精神は分離できないので精神医学として独立することになった.そして眼に見え,客観的に確かめることができる身体はその部だけを分離,独立させて認識してよいことを唱えた.そこで身体を分離して,独立した部分を科の学問として追求する科学が生まれ,発展した.しかし科学には,全体を考えるという視野に欠ける面が後に誤ちを犯すという点も持っている.科学は部分的現象を明らかにする学問である.
 このように考えると,我が国の医歯二元論制度は歯科学を医学と分離,独立することによって身体医学としての科学を効果的に発展させることができたと思われる.しかし歯や口腔局所だけを陸の孤島として対応する視野は,心身の全身的全体像との関係に眼を閉じてしまった観がある.そして「歯や口腔」と「全身各臓器」との有機的関連性や生命体としての発生や進化などについて総合的に考える分野を置き去りにしたのではないかと思われる.これからの歯科学は歯という木だけを見るのではなく,木と森とを見て木のことを考える必要がある.そこに,歯科学と臨床については医歯一元論的視野と何らかの制度改革が求められる所以がある.科学が進歩していくと,その分野の知見は次第に深く,狭く,そこだけが詳しくなっていく.そこで科学的知見や科学技術については,信頼性の吟味や全体的,統合的に考える哲学が必要になってくる.
かつてアメリカ初期の歯科医学教育は,歯科医療が社会的に認められる歯科医師を教育することであった.その最も手軽で速い方法はできるだけ医学教育を真似ることであった.このようなことから,歯科医学教育の学科課程の一部には解剖学,組織学,生理学,微生物学,病理学総論などがとり入れられた.しかし,これらの学科目の大部分は歯科医学に理解のない医師たちが教えたので,結果的には歯学部学生の理解が得られなかった.学生たちは何故,歯科医師になるのに,このような学科目が必要なのかという疑問が生じた.このことは教えている医師だけでなく学生たちからも不満の声が聞かれ,これらの学科目を学ぶ学生の意欲低下に及んだ.
しかし今日では,歯や口腔病変の原因や病的過程の変化を,医学の基礎科学知識を用いて関連性を理解したり,裏付けをもって考えるようになっている.このようなことはアメリカにおいても我が国においても近代歯科医学が専門的歯科学と基礎医学,生物学,社会科学などとの関連性を成熟させて発達していることを示唆している.
 かつて我が国における歯科学教育においてもアメリカと同様の歯科学と乖離した基礎医学や関連医学の講義があったが,中には興味と感銘を覚えた講義もあったことが筆者には思い出される.
 現代の我が国における医歯二元論制度における制度の在り方については,利点と欠点そして矛盾が生じている.今ここで改めて,その在り方を反省し,将来的展望を考えてみる必要はないだろうか.そこに本テーマの本質があると思う.



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